【近世猫ブーム】怪猫・忠猫・愛猫いろいろ【お江戸のニャンたち】

現代の我々にとって、犬や猫をはじめとする愛玩動物たちは、家族同然の欠かせない存在です。
それでは、江戸時代の猫たちは、どのように人間と関わっていたのでしょうか。
猫好きの皆さんなら、浮世絵に描かれた猫の姿をご覧になったことがあるのではないでしょうか。
また、化け猫騒動のエピソードなどもきいたことがあるかもしれません。
江戸の人々にとっての猫ってどういう存在だったんだろう?って、ふと気になったりはしませんか?
好奇心旺盛なそこのあなた、可愛い猫のことならなんでも知っておきたいあなた、よろしければ、ちょっと覗いていってくださいね。

  1. 猫と日本人のかかわり
  2. 江戸時代より前の猫のポジション
  3. 江戸時代の人々にとっての猫
  4. お蚕さまとお猫さま
  5. クリエイターは猫が好き?
  6. 『猫の妙術』
  7. 『物類称呼』と『猫瞳寛窄弁』
  8. 化け猫話が大ブーム
  9. 生類憐みの令の上をいく猫
  10. 招き猫「たま」
  11. 猫の今昔

猫と日本人のかかわり

猫はいつ、どこから日本へやって来たの?
ふと、そんなことを考えたりしませんか?

そもそも、猫がペットとして飼われるようになったのは、いつ頃でしょう。
猫はもともと日本に生息していたんでしょうか?

猫が初めて人の暮らしに関わるようになったのは、なんと9500年も前の中東でのことです。
リビアヤマネコが家畜として飼い慣らされるようになったのが飼い猫の始まり、とは猫好きさんなら結構ご存知かもしれません。
古代エジプトでは猫の姿をした神が崇められたり、王と一緒に猫のミイラも埋葬されたりという話もよく知られていますね。
猫のミイラは、のちに薬として珍重され、墓から掘り出されて高値で取引されたりもしたようです。
いずれにせよ、猫は次第に人間の暮らしに深く溶け込むようになりました。
そうして、猫の家畜化は、エジプトからヨーロッパ、やがてはアジアへと広まって来たのです。
中国を経由して、ついに日本へ―――。
それが、今、わたしたちの膝のうえに抱かれているイエネコちゃんたちのルーツなんです。

日本でイエネコが確認されている最も古い例として、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡があります。
そこからイエネコの骨が発掘されたのです。
2100年前、つまり弥生時代の遺跡から出土したイエネコ―――。
実は、この発掘以前は、イエネコは奈良時代から平安時代頃に日本へやって来たのだろうと言われていました。
仏教の教えとともに渡来したと考えられていたためです。
ありがたい経典がねずみに齧られたりすることのないようにと、船に乗せられて来たというのが通説でした。
ところが、カラカミ遺跡で発見されたイエネコの骨によって、猫はその数百年も前、古代日本ですでに暮らしていたということがわかったのです。

江戸時代より前の猫のポジション

古代日本の猫は、貯蔵していた穀物をネズミや昆虫から守るという、「倉庫番」の役割を果たしていました。
穀物の栽培がはじまった古代日本、苦労して収穫に至った穀物を食い荒らすネズミは、それこそ人間の敵。
ネズミを獲物とする猫こそが、救世主でした。
猫は、現在のような愛玩目的ではなく、まさに「家畜」の位置づけだったんですね。
人間は猫に穀物を守ってもらい、猫は快適な住環境を手に入れる……、猫と人間はそうやってWin×Winの関係になりました。
おまけに、人間は知ることになるのです。
猫の「癒し効果」を!
共に暮らすうちに、わたしたちも日々味わっているあの「癒し」の心地よさに、古代の人々もきっと身をゆだねたことでしょう。
穀物を守り、さらには人間の心まで豊かにしてくれるお猫様の存在は、やがて富や豊かさの守り神として、人の暮らしに根付いてゆくのです。

猫がようやく現在のような愛玩動物となるのは、平安時代になってからのこと。
といっても、まだまだ猫を飼うのは高貴な身分の人にのみ許された贅沢な楽しみでした。
「寛平御記」と呼ばれる宇田天皇の日記には、父である光考天皇から賜った黒猫についての記述が残っているといいます。
日本最古の猫ブログ的位置づけといったところでしょうか。
一条天皇も大の猫好きで、猫のお誕生日会をしたり、が許されないから飼っていた猫に階位を与えて昇殿できるようにしたり、とまあ、メロメロだったんですね。
一条天皇の猫に対する過剰な溺愛ぶりについては、かの清少納言女史も『枕草子』に書いており、これがまた一緒に飼われていたワンちゃんにとってはとんでもない可哀想な話なのです。
あまりに残酷なので、ここでは割愛しますが、ご興味のあるかたは是非、『枕草子』の「上に候ろふ御猫は」というトピックを覗いてみてくださいね(涙)。

江戸時代の人々にとっての猫

慶長7年(1602年)のこと。
あるお触れが発布されました。
その名も「猫放し飼い令」。
ネズミによる害を減らすため、猫を放し飼いにすべし!というのです。
実際、この令によって、ネズミの害は激減したそうなのですが、当時はまだ猫の数は少なく、貴重だったと言います。

当時「のらねこ」を捕まえては金持ちに売る者たちがあとを絶ちませんでした。
そもそも猫は座敷で綱でつないで大事に飼われていましたが、うっかり家から外へ出た飼い猫も「のらねこ」として売り飛ばされてしまうため、猫を飼う人たちはますます猫を大切にしまいこんでいたのです。
ところが、猫が町におでましにならなくなると、ネズミは増え放題となります。
それゆえの「猫放し飼い令」でした。
けれども、当時は高価だった猫様ですから、飼っているお金持ちにしてみれば、黙って命令に従えるものではありません。
そこで考えました。
お触書には、猫をつながず放し飼いにせよと書かれてはいますが、敷地の外へ放せとは書いていないのです。
ならば、と猫飼いの人々は、敷地外へは出さないけれども、庭で放し飼いすれば文句はなかろう、とまあ苦肉の策ではあります。
大切な猫を逃がさないように、奉公人に見張らせたのでした。

一般庶民はそうそう猫様を調達できませんでしたから、それならせめて……ということで、猫の絵を手に入れてネズミ除けにしていたとか!
効果あったんでしょうか⁉
「招き猫」が縁起物として親しまれるようにもなり、そのうち庶民もネズミ駆除のために猫を飼育できるようになっていきました。

お蚕さまとお猫さま

農村で飼い猫が広まったの一因としては、養蚕の普及があります。
もともと猫は「ネズミ駆除」の使命を負って人間の暮らしに溶け込んできた動物ですが、養蚕現場でもネズミの繁殖は死活問題でした。
なにしろ、ネズミは蚕の幼虫を食べます。
繭をかじって、中身をほじくり出すのです。
こうなってはもう、繭という繭がどんどん被害を受けることになりますから、養蚕家は必ず猫を飼うようになりました。
猫がいないなら隣家の猫を、ということで、大量の鰹節で猫を呼びこみ、逃さないようにしたとも言います。
1702年著の日本最古の養蚕書『蚕飼養法記』にも、「家々に必ずよき猫を飼い置くべし」と書かれてあります。
江戸時代後期、平戸藩主の松浦静山は、随筆集『甲子夜話』に
「奥州は養蚕が盛んなので、ネズミが蚕を食べたりしないよう、猫が重用されている。馬の値段は1両くらいなのに、猫の値段は5両にもなるという」と書きました。
画家の谷文晃から聞いた話だとされていますが、東北での猫の可愛がらようがわかります。
東北では、「猫神」という文化がありますが、このように養蚕に欠かすことのできない猫の存在がベースにあったのでしょう。
このため、東北南部では「猫碑」というものが多数見られます。

ちなみに農村部では、江戸時代中期に猫ドアが登場しています。
台所に猫専用の出入り口を設けたのです。
長野県の重要文化財である「春原家住宅」には、かなりしっかりした造りの猫ドアがとりつけられているそうですよ。

クリエイターは猫が好き?

今も昔も、クリエイティブな方って猫好きさんが多い気がしませんか?
歌川国芳は江戸時代末期に活躍した浮世絵師ですが、彼は猫の浮世絵を数多く残したことで有名です。
かなりの愛猫家だったそうで、数匹から十数匹の猫を飼っていたそうです。愛猫が死ぬと仏壇に位牌も入れて供養したとか。
現代の我々と同じですね。
絵を描くときも、猫を膝から離さなかったようですよ。三代・歌川広重は、あの「東海道五十三次」を描いた初代広重の門人ですが、この人が描いた猫の百態の可愛いことといったら!
「百猫画譜」という作品集に載っています。
猫好きだったかどうかはわかりませんが、よほど猫を身近に観察していないとこの味は出せません。
河鍋暁斎も猫を多く描いていますし、これまた猫好きでなければ描けなさそうな作品ばかり。
いずれも、鑑賞する機会があれば、猫好きさん必見ですね。

次に、書物に記された猫を、いくつか見ていきましょう。

『猫の妙術』

佚斎樗山という人物は、本名を丹羽忠明といい、享保12年(1727年)に刊行された談義本『田舎荘子』の著者です。
この『田舎荘子』、剣術の心得を説いた本なのですが、その中の一つに『猫の妙術』という話があります。

面白いのは若猫達と古猫の問答という体裁をとっていること。
教訓を説くにあたって、見識者に難クセをつけられるのを避ける意味で、人外のものに託して語ったとのこと、当時ももしかしたら炎上なんてことがあったんでしょうか?
物語の内容はこうです。

剣術家の勝軒は、家に大鼠が現れたため、飼い猫を仕向けてネズミを捕らえさせようとしたものの、猫はあえなくネズミに噛まれてしまいます。
そこで、近所のネズミを捕った経験のある猫達を近所から集めさせたものの、どの猫も敵いません。
とうとう勝軒自身が、木刀を手にしますが、ネズミはちょろちょろと逃げ回り、逆に勝軒のほうが噛みつかれそうになります。
どうにも手に負えず、ネズミ捕りの名手だという古猫を連れてこさせました。
ところが、その猫はなんだか覇気がありません。
大丈夫かと思っていたところ、いざネズミのいる家に放ったところ、ゆっくりとネズミを追い詰めて、ろくに抵抗もさせずに容易く捕らえて咥えてきたのでした。

その夜のこと。
猫達が集って、件の古猫に教えを乞います。
若い黒猫は所作を鍛錬し、少し年上の虎猫は気を修行し、さらに年上の灰猫は心を練ったものの、それでもネズミには敵わなかったことを語ります。
これに対し、古猫は、自然の和ではなく、意図をもって和を為そうとすればそこに虚が生じる、自分は何の術も用いはしないし、無心で自然に応じるだけだと語ります。
そして、過去に出会ったある猫の境地は自分を更に凌ぎ、周囲に敵が生じさせないほどであったと言うのです。
自分もまだまだその境地には達していないと。

そのあと、古猫は勝軒にも、敵とは何であるのか、心の在り方をこう説きます。
己れが在るから敵が在る。相対するものがなければ比べるものもない。敵もなく、己れもないのだ、と。

なんと含蓄ある言葉を吐く猫でしょう!
でも、老猫って、そういう境地に達してそうな気がしてくるから不思議ですね。

『物類称呼』と『猫瞳寛窄弁』

『物類称呼』は、俳諧師の越谷吾山によって編纂された、江戸時代の方言辞典ですが、そこに猫に関する以下のような記述が見られます。


猫 ねこ
○上総の国にて・山ねこと云[これは家に飼ざるねこなり]
 関西東武ともに・のらねことよぶ
 東国にて・ぬすびとねこ・いたりねこともいふ
[夫木集]〽まくす原 下はひありく のら猫の なつけかたきは 妹か こゝろか   仲正
この歌人 家にやしなはざる猫を詠ぜるなり
又 飼猫を 東国にて・とらと云・こまといひ又・かなと名づく
今按に猫をとらとよぶは 其形虎ににたる故に とらとなづくる成べし
『和名』ねこま 下略して ねこといふ
又 こまとは ねこまの上略なり
かなといふ事は むかし むさしの国 金沢の文庫に、唐より書籍{しよじやく}をとりよせて納めしに 船中の鼠ふせぎに ねこを乗{のせ}て来る
其猫を 金沢の唐{から}ねこと称す
金沢を略してかなとぞ 云ならはしける
『鎌倉志』に云  金沢文庫の旧跡{きうせき}は称名寺{せうめうじ}の境内{けいだい}阿弥陀院{あみだいん}のうしろの切通  その前の畠文庫の跡{あと}也
北条越後守平顕時 このところに文庫を建て 和漢{わかん}の群書{ぐんしよ}を納め儒書{じゆしよ}には黒印{こくゐん} 仏書には朱印を押{をす}と有
又『鎌倉大草紙』に武州金沢の学校{がくかう}は 北条九代|繁昌{はんぜう}のむかし 学問{がくもん}ありし旧跡{きうせき}なりと見へたり
今も藤沢の駅わたりにて 猫児{ねこのこ}を囉{もら}ふに 其人|何所{どこ}猫にてござると問へば 猫のぬし 是は金沢猫なりと答るを常語とす
花山院御製歌に
[夫木集]〽敷しまや やまとにはあらぬ唐猫を 君か為にと求め出たり
又 尾のみじかきを 土佐国にては・かぶねこと称す
関西にては・牛{ごん}房と呼ふ
東国にては・牛房尻{ごぼうじり}といふ
『東鑑』五分尻{ごぶじり}とあり


とまあ、随分細かく、猫の呼び方について語られていますね。

さて、次は『猫瞳寛窄弁』なる書物を見てみましょう。
江戸時代末の銅版画家で実学者であった、梅川夏北が記したものです。
猫の目が明暗によって瞳孔の大きさが変わることは、猫好きの皆さんなら百も承知のことと思います。
『猫瞳寛窄弁』では、そのしくみを解剖学的構造から説明してあるのですが、ひとつ間違いが……。
それは、虎も同様であると説いているところなんです。
でも、実は、当時の人々は虎を見たことがなかったので、巨大な猫という認識なんですよね。
だから、日本の昔の絵画に出てくる虎の絵は、猫のように瞳孔が縦長になっているものが少なからずあるのです。
いずれにせよ、昔も猫に詳しい人は、その目が明暗で形を変えることは心得ていたと見えて、忍者の書である『万川集海』にも、猫の目で時間を知るという記述がありました。

化け猫話が大ブーム

さて、猫はなんとも可愛らしい動物ではありますが、前述のとおり昼と夜とで眼の形を変える、どこかミステリアスな存在でもあります。
「猫又」をはじめとした猫妖怪の話が多くなってきたのは、鎌倉時代中期頃から。
これには、日本人の仏教を信心する心が深く関わっています。
「火車」というのをご存知でしょうか。
人が地獄へ落とされる時、迎えにくる車だと言われています。
火車は人を生きながら地獄へ落とすのです。
鎌倉初期、南宋に留学していた天台宗の僧侶・栄西が、日本へ禅宗をもたらし、臨済宗を開いたのは有名な話。
その時に持ち帰った南宋一切経の中の、「大智度論」なる大般若経の解説書があるのですが、そこに火車について書かれていたのです。
無論、人々は火車を恐れましたが、この火車なるものの正体が、なにを隠そう猫である、という節があるのです。
これは諸説あるうちのひとつに過ぎないとはいえ、先ほども述べた通り、どこかミステリアスな猫―――、人々は「こいつならば、さもありなん……」と、どこか納得してしまったのかもしれません。
そうなると猫はミステリアスを越えて恐ろしい存在。
可愛がっていた飼い猫すら怖くなって手放すこともあったでしょう。
そうして、それまで縄で繋がれて家の中で飼われていた猫たちが、野良猫となって自由に動き回り、さらに猫にまつわる奇怪な話も尾鰭をつけて広まっていったものと思われます。

猫にまつわる怪異は、それこそ大昔からさまざま語り伝えられているのですが、江戸時代に入ると、各種の随筆や怪談集に化け猫の話が登場するようになります。

『兎園小説』『耳嚢』『新著聞集』『西播怪談実記』などには、猫が人間に化ける話、人間の言葉を喋る話が、『甲子夜話』『尾張霊異記』などには猫が踊る話が見られます。
10年生きればどんな猫でも言葉を話せるようになると書いてあるのは『耳嚢』。
狐と猫の間に生まれた猫は、もっと早く喋れるようになるのだとか。
現代人からすれば「そんなバカな」と笑い飛ばすところですが、まことしやかにそう記されていると、当時の人々はなんとなくそんな気になったのかもしれません。
また、老猫が人間の老女に化ける話も非常に多かったようです。

化け猫の怪談はこの江戸時代が全盛期で、なかでも有名なのは、愛知県「岡崎」、佐賀県の「鍋島」、福岡県の「有馬」の『日本三大化け猫騒動』ではないでしょうか。
これらは、歌舞伎の演目や浮世絵にしばしば登場します。

生類憐みの令の上をいく猫

徳川綱吉は「犬公方」として悪名高い将軍です。
けれども、「生類憐みの令」に対する悪評は、実は政敵による意図的な歪曲も加わって貶められたのであり、本当にそれほどの悪法ではなかったとも言われます。
この法令は、儒教的観点から見た社会においての上位者尊重と、仏教が説く弱者への慈悲との間での葛藤から生まれたものだというのです。
「生類」とは、何も犬ばかりではありません。
捨て子・姥捨て・捨て病牛馬・捨て犬・鷹狩りの獲物の鳥類と、その対象はかなり広かったのです。
古今稀に見るほど、弱者に手厚い法令であったと言えます。
でも、もう一度その「対象」を読み返してみてください。
不思議なことに、条項には「猫」が入っていないではありませんか。
―――それもそのはず。
日本では、猫は昔から大切に飼育される高級愛玩動物。
法令によって窃盗や売買が禁止されていたことは、既に述べたとおりです。
いまさら生類憐みの令で守るまでもないほどに、厚遇されていた存在と言えます。

さて、その厚遇の理由は、いまではちょっと考えられないことでした。
それは、猫の繁殖力が低かったからだというのです。
というのも、当時の日本人、肉食ではありませんでしたよね。
動物性たんぱく質は、ほぼ魚から摂っていたわけです。
飼い猫にとってもたんぱく源は魚のみで、当然毎食お腹いっぱい貰えるわけでもありません。
本来、肉食である猫にとって、これはつらい環境です。
ネズミを獲るにしても、屋内で大事に飼われている身では、捕食できるネズミの数とてたかが知れています。
犬は雑食性ですから、それでも辛抱できるでしょうが、猫は動物性たんぱく質が摂れなければ死活問題です。
動物性脂肪や油分も不足し、かなり栄養状態は悪かったと言えます。
繁殖力が低かったのもうなづける話ですね。
不足している油分を補うために、猫が行灯の油を舐めたとしても仕方のない話ではありますが、当時の人からすればその姿は異様に映ったのでしょう。
化け猫話は、そんなところから生まれ、広まったとも言えます。

猫は年を取ると尾が分かれて猫股になると言われていました。
そのために、江戸の人々は、もともと尻尾の短い、猫股になるおそれのない猫を好みました。
これがジャパニーズボブテイルです。

招き猫「たま」

化け猫の話が続いてしまいましたが、皆さんは薄雲太夫という花魁をご存知ですか?
大変な愛猫家で、「たま」という三毛猫を可愛がっていました。
純金の鈴をつけた緋縮緬の首輪をつけてやり、あまりに溺愛するので、周囲は化け猫に憑りつかれているいるのではなかろうかと怪しみますが、薄雲太夫はたまを離しません。
厠の中にまでついていこうとしたたまに堪えかねて、見世の者はついにたまの首を切り落としてしまいます。
ところがです。
たまが厠に入ろうとしたのには、わけがありました。
たまは、首だけでも厠へと飛んでいき、潜んでいた蛇の頭に噛みつき、そして息を引き取りました。
厠にまでついていこうとしたのは、蛇に狙われていた薄雲太夫を守るためだったのです。
なんとも忠義な猫ではありませんか。
「招き猫」は、このたまがモデルなのです。

また、小田急線沿線の豪徳寺も、招き猫発祥の地と言われています。
豪徳寺の住職が飼っていた猫、これも「たま」という名の猫なのですが、このたまが、彦根藩主・井伊直孝の命を救ったことがありました。
直孝が鷹狩りの帰りに、寺の門前でたまが手招きをしているのに出くわし、導かれるまま寺に入ったところ、突如激しい雷雨が。
たまが招き入れてくれなければ、落雷の難に遭っていたというのです。
この縁で、豪徳寺は井伊家の菩提寺になったそうです。

とまあ、猫は祟るばかりではなく、こうして人の命も救ってくれることがあるのです。
どちらにしても、不思議な力を持っているように見える存在ではありますね。

猫の今昔

どうでしたか?
江戸時代の人々は、現代の我々に負けないくらい猫を大事にしていたのがわかりますね。
猫は、ただの愛玩動物ではなく、大事な食物や商品をネズミの害から守ってくれる貴重なパートナーでした。
猫にとっては必ずしもよい環境ではなかったかもしれませんが、人と猫の絆が育まれていった時代だったともいえるでしょう。
また、猫の神秘的なたたずまいは、化け猫や招き猫の不思議な物語を生み出しました。

貴重で、可愛く、けれどもどこかミステリアスな存在。
あなたの猫をよくご覧になってください。
そんな江戸の昔話など知らぬげに、ゆったりと昼寝を決め込んでいるのではないでしょうか。
―――でも。
もしかしたら、江戸の巷に寝そべっていた猫の生まれ変わり……なんてことも、あるかもしれませんよ。

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